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『御城印』 尼子十旗 第四支城 赤穴瀬戸山城 第27代目赤穴家当主揮毫
¥300
揮 毫:第27代赤穴家当主 家 紋:丸に並び矢(赤穴家) サイズ:縦14.8cm × 横10.3cm 仕 様:プリント・汎紙苑305〈51.6〉( 広瀬和紙版は終了いたしました ) 発 送:6日営業日内(クリックポスト:ポスト投函 ) 尼子十旗第四支城「赤穴城」の御城印です。文献では「赤穴城」「藤釣城」などと表記されていますが、現在は地域の方々に「赤穴瀬戸山城(あかなせとやまじょう)」として親しまれています。 赤穴城の歴史は、石見国の佐波家七代佐波実連(さねつら)の次男、佐波常連(つねつら)が赤穴荘に所領を得たことにはじまります。佐波常連は赤穴姓を名乗り、築城については永和3年(1377年)頃と考えられています。赤穴城は出雲・備後・石見国の交通の要衝のため、国境警備の最前線となりました。関ケ原の戦いの後、出雲国に入封した堀尾吉晴の城代として松田左近が入城、中世山城から近世城郭に改修しました。元和元年(1615年)一国一城令で破城されたものの、主郭~第3郭には石垣の一部分が残り、往時を偲ぶことができます。 また、地域の方のお陰で登山道はよく整備されており、休憩用のベンチやユーモアに溢れた案内看板などに心が和みます。令和5年には、山頂(主郭)から約30分の武名ヶ平山頂上から旧赤名スキー場方面を経由して登山口への周遊ルートも整備されましたので、山城探訪でなくてもちょうど良い距離のハイキングを楽しむことができます。 赤穴瀬戸山城にまつわる逸話(雲陽軍実記)として、主に2つの合戦が語られます。 【天正11年(1542年)大内氏出雲侵攻】 戦国時代の中期、中国地方では月山富田城(安来市広瀬町)を本拠とする尼子氏と周防国を中心に7ヶ国の守護を兼領する大内氏によって勢力が二分され、覇権を争い一進一退の攻防が繰り返されていました。天文9年(1540年)より尼子晴久は、大内氏の配下にあった毛利元就(安芸郡山城)を攻めましたが大敗し、その機に乗じて天文11年(1542年)大内義隆は出雲侵攻を開始しました。周防国を出発し毛利元就をはじめ、石見・備後勢を合わせ、数万とも伝わる大軍は石見国出羽の二つ山城に滞陣し、出雲国最前線尼子方の赤穴城攻略の軍議を重ねていました。 赤穴城では、月山富田城から田中三郎佐衛門率いる千の援軍が到着していました。城主の赤穴光清は城下を流れる神戸川(かんどがわ:出雲国風土記では神門川と記す。現在も、神在月八百万の神々が出雲国に参集される際、神戸川(神門川)を下り稲佐の浜での神迎え神事を経て、出雲大社にお入りになると伝えられています。)を堰き止め城下を湖水化し、敵の侵攻に備えました。その規模は八反歩あったと言われ、今もご年配の方は衣掛山山麓の地域を「はったんぼ」と呼んでいます。 天文11年(1542年)6月7日、赤穴城攻めの火蓋は大内方の熊谷直続によって落とされました。直続は神戸川の堰を決壊させ、手勢三百を引きつれ民家に火を放ちながら城下に現れましたが、赤穴光清・田中三郎左衛門・吾郷大炊介らの反撃により討ち取られました。大内軍四万に対し赤穴軍はわずか二千でしたが、その後も、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによって悉くこれを退けました。 業を煮やした大内義隆は、7月27日ついに陶隆房・吉川興経らを中心に総攻撃を命じますが、老臣吾郷大炊介・松原采女らはわずかな手勢で奮戦し、虎口まで迫った大内方を押し戻しました。しかし、城主赤穴光清は惜しくも流れ矢のため討死してしまいました。赤穴軍は、このことを大内方に伏せたまま虚偽の降伏の書を送り、再起を図るためその日のうち闇夜に紛れて赤穴城を後にしました。わずか二千の兵で約2か月も抗戦したことにより、月山富田城は応戦の準備期間を得ることができ、後の大内軍大敗に繋がったことは間違いありません。 さて、雲陽軍実記には「然るに右京亮幸清(中略)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き(中略)味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ・・・」「(前略)向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に・・・」と、赤穴方の弓矢・鉄砲隊により大内・毛利方が攻撃を受けた様子があり、出羽助盛の軍勢が負傷したと記されています。1542年といえば、種子島鉄砲伝来の一年前であり、真偽の程はわかりませんが、ある研究者によれば、この戦いで使われた銃は石弾を使用する粗製な物であったかもしれないが、鉄砲が戦に使われたことが最初に確認できる戦いではないかとも言われています。まさに歴史ロマンですね。 【永禄5年(1562年)毛利氏出雲侵攻】 毛利氏は石見国を抑え、いよいよ出雲侵攻を開始します。石見・備後・出雲国境最前線である尼子十旗第四支城の赤穴氏にも降伏を迫りました。この頃には、本庄常光をはじめ三沢・三刀屋氏など石見・出雲国人も続々と毛利氏に与するようになり、赤穴氏も領地・領民のためにも交戦の利なしと開城を決断しました。しかし、譜代家臣の烏田権兵衛勝定と森田左衛門勝経は尼子氏への長年の恩顧に対し忠義を貫くことを主張し、討死を覚悟で赤穴氏と袂を分かちます。 彼らは、毛利氏に滅ぼされた大内氏の浪人や各国の郎党にも檄を飛ばし、その数二千に達したと伝わっています。そして、賀田城を要害として琴が峰(琴引山)にも陣屋を構えました。永禄5年(1562年)、毛利軍が赤穴城に着陣すると烏田・森田一揆勢は各地でゲリラ戦を繰り広げましたが、ついに突根尾原(現飯南高校)の合戦で烏田権兵衛は討死し、武士の本懐を遂げました。森田氏は再起を図るため、尼子氏の居城月山富田城へ敗走しました。長い年月を経て、烏田氏は華々しく討死し、森田氏は逃げ帰ったというイメージが定着してしまっていますが、この時森田氏は烏田氏一族も連れて月山富田城まで護送しています。年代は不明ですが、後年烏田氏は郷里に戻っており、第27代目烏田氏は「現在まで烏田家が続いているのも森田氏のお陰と、祖父や父から伝えられています。」と、語っていました。 雲陽軍実記『藝州勢赤穴城入 附突根尾原合戦の事』の最後では、毛利元就は赤穴氏に「一揆の大将である烏田・森田両人は、あなたの譜代家臣だったそうじゃないか。なぜ自ら討伐に出ないのか? 何か企んでいるのでは?」と詰問しますが、赤穴氏は「おっしゃる通りです。両人は、武門の鑑として尼子家無二の志を立て忠義を貫くべきと私どもの不忠を諫めましたが、不本意ながら私は利害得失を計り主君に不義をいたしました。本来、武士としての人道と正路は彼等にあり、敵味方に別れたとはいえ、忠義一徹の両人を私は討つことができません。それでも、ご不審であれば毛利家の軍律に従って如何様にもしてください。」と、憚ることなく正直に申し開きをしました。この態度に感服した元就は「なる程、尤もである。それにしても誠に天晴れな主従。右京亮(赤穴氏)は古今の義者。烏田・森田両人もこの世では珍しい忠臣、まるで殷(古代中国)の伯夷叔齊のようだ。これほどの義の者が味方についてくれたら、どれほど心強いであろうか・・・」と、述懐したと記されています。 赤穴瀬戸山城の麓には、奥出雲和牛が手ごろなお値段で味わえる「ステーキハウス萠美野」があります。奥出雲和牛は2022年の全国和牛能力共進会(通称:和牛オリンピック)において、肉牛の部で島根県初の日本一! 脂肪の質特別賞を獲得しました。ぜひ、登城後のランチにお立ち寄りください。 また、お車は登山口から徒歩5分の道の駅赤来高原南隣「飯南町役場職員駐車場」(無料)を、ご利用ください。 <赤穴瀬戸山城> https://www.satoyamania.net/364/ <赤穴瀬戸山城パンフレット ダウンロード> https://www.satoyamania.net/pamphlet/ <赤穴瀬戸山城 Youtube> https://www.youtube.com/watch?v=9YhuQq0Zylg <スピンオフ企画 松江武者行列 in 赤穴瀬戸山城 Youtube> https://www.youtube.com/watch?v=xq7Efms8X1U
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『御城印』 賀田城 尼子無二之忠臣 烏田権兵衛勝定
¥300
家 紋:丸に隅立て四つ目(烏田家) サイズ:縦15.0cm ✕ 横10.3㎝ 仕 様:プリント エコ間伐紙N76.5(広瀬和紙版は販売終了いたしました) 発 送:6営業日内(クリックポスト:ポスト投函 ) 出雲国飯石郡来嶋郷「賀田城(かだじょう)」の御城印です。 賀田城は島根県飯石郡飯南町下来島の松本山(標高494m)にあり、現在は出雲国尼子十旗「赤穴(あかな)瀬戸山城」の支城として語られることが多い中世の山城です。 賀田城にまつわる逸話で最も有名なのが、毛利氏による出雲侵攻時の烏田(からすだ)・森田氏のお話(雲陽軍実記)です。 毛利元就は石見国を抑え、いよいよ出雲侵攻を開始します。各所に調略の手を広げ、石見・備後・出雲国境最前線である赤穴氏にも降伏を迫りました。この頃には、本庄常光をはじめ三沢・三刀屋氏など石見・出雲国人も続々と毛利氏に与するようになり、赤穴氏も領地・領民のためにも交戦は無益と開城を決断しました。しかし、譜代家臣の烏田権兵衛勝定と森田左衛門勝経は尼子氏への長年の恩顧に対し忠義を貫くことを主張し、主君(赤穴氏)と袂を分かちます。 彼らは、毛利氏に滅ぼされた大内氏の浪人や各国の郎党にも檄を飛ばし、その数2,000に達したと記されています。そして、賀田城を要害として琴が峰(琴引山)にも陣屋を構えました。永禄5年(1562年)、毛利軍が赤穴城に着陣すると烏田・森田一揆勢は各地でゲリラ戦を繰り広げましたが、ついに突根尾原(現 飯南高校)の合戦で烏田権兵衛は討死し、武士の本懐を遂げました。森田氏は再起を図るため、月山富田城へ敗走しました。長い年月を経て、烏田氏は華々しく討死し、森田氏は敗走したというイメージが定着していますが、この時 森田氏は烏田氏一族も連れ月山富田城まで護送しています。年代は不明ですが、後年烏田氏は郷里に戻っており、第27代目烏田氏は「現在まで烏田家が続いているのも森田氏のお陰・・・と祖父や父から伝えられています。」と、語っていました。 雲陽軍実記『藝州勢赤穴城入 附突根尾原合戦の事』の最後では、毛利元就は赤穴氏に「一揆の大将である烏田・森田両人は、あなたの譜代家臣だったそうじゃないか。なぜ自ら討伐に出陣しない? 何か企んでいるのではないか?」と詰問しますが、赤穴氏は「おっしゃる通りです。両人は、武門の鑑として尼子家無二の志を立て忠義を貫くべきと私どもの不忠を諫めましたが、不本意ながら私は利害得失を計り主君に不義をいたしました。本来、武士としての人道と正路は彼等にあり、敵味方に別れたとはいえ、忠義一徹の両人を私は討つことができません。それでもご不審とあれば、毛利家の軍律に従って如何様にもしてください。」と、憚ることなく正直に申し開きをしました。この態度に感服した元就は「なる程、尤もである。それにしても誠に天晴れな主従。右京亮(赤穴氏)は古今の義者。烏田・森田両人もこの世では珍しい忠臣、まるで殷(古代中国)の伯夷叔齊のようだ。これほどの義の者が味方についてくれたら、どれほど心強いであろうか・・・」と、述懐したと記されています。 さて、賀田城の麓には効能豊かな黄金の湯が湧いています。ぜひ、訪城と合わせて日帰り温泉「加田(かだ)の湯」でお疲れを癒してください。また、烏田権兵衛への愛着をこめたお食事処「ごんべい茶屋」では、地元のおかあさんの素朴でおいしい手料理が味わえます。さらに、当御城印が直接購入できるのも加田の湯のみとなっております。(臨時休業がありますので、ご来湯前にご一報をお勧めします。0854-76-3357) 御城印の家紋は烏田家に伝わる「丸に隅立て四つ目」で、忠義を尽くした尼子氏の家紋「平四つ目結」と似ている点もうなづけます。また、槍を持った少年は烏田家に代々伝わる「烏田権兵衛の槍」(写真)を持った第25代当主の少年時代(当時12歳)の姿からオマージュしたものです。 お近くの赤穴城をはじめ、日本100名城月山富田城(車で90分)、郡山城(車で70分)と合わせて賀田城にもお越しください。無名ながらも武士の鑑として戦国の世に散った一人の武将の生きざまに想いを馳せてみてはいかがでしょうか♬ <賀田城> https://www.satoyamania.net/69/ <賀田城パンフレット ダウンロード> https://www.satoyamania.net/pamphlet/ <賀田城 Youtube> https://www.youtube.com/watch?v=9c5R2lmR204
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『御城印帳』 尼子十旗 第四支城 赤穴瀬戸山城 & 賀田城
¥2,200
御城印帳 1冊(40ポケット) サイズ 縦18cm × 横12.5cm × 厚み2cm 261g 発 送 6日営業日内(クリックポスト:ポスト投函 ) 城びと(公益財団法人 日本城郭協会公認)共同制作 https://shirobito.jp/ 最盛期には中国地方8ヵ国を治め120万石もの広大な領土を支配した戦国大名尼子(あまご)氏。尼子氏の盛衰を描いた一級歴史書「雲陽軍実記(うんようぐんじっき)」には、尼子氏の重要な家臣10人を「尼子十旗」(あまごじっき)と記しています。 当御城印帳では、左表紙に尼子十旗第四の禄を賜り出雲・石見・備後、三か国の国境防衛最前線を担った『赤穴(あかな)瀬戸山城)』、右表紙には赤穴氏の重臣かつ尼子氏への忠義を貫き通した地元の英雄!烏田(からすだ)氏ゆかりの『賀田(かだ)城』を揮毫しています。 また、主君尼子氏の居城『日本三大山城 月山富田城(がっさんとだじょう)』は言うまでもなく、全尼子十旗も意匠された大変贅沢な御城印帳です。ぜひ!みなさまの城あるき・城攻めにお供させてください❢❢ 〖赤穴瀬戸山城をもっと詳しく!〗 https://iinan.base.shop/items/70762422 〖賀田城をもっと詳しく!〗 https://iinan.base.shop/items/70818076